逢坂八幡神社について
逢坂八幡神社と管粥神事
逢坂八幡神社禰宜 太田貴能
逢坂八幡神社。地元では「八幡さん」と親しんでいただいています。
御祭神は、誉田別尊(ホンダワケノミコト、応神天皇)・息長帯姫尊(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)・田心姫尊(タギリヒメノミコト)・湍津姫尊(タギツヒメノミコト)・市杵島姫尊(イチキシマヒメノミコト)・天照皇大神(アマテラスオオミカミ)・素盞鳴尊(スサノウノミコト)・稲田姫尊(イナタヒメノミコト)・天穂日尊(アメノホヒノミコト)・活津彦根尊(イクツヒコネノミコト)・天津彦根尊(アマツヒコネノミコト)・熊野久須日尊(クマノクスヒノミコト)・天之忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)・大山祇尊(オオヤマズミノミコト)・木花咲耶姫尊(コノハナサクヤヒメノミコト)・倉稲魂尊(ウガノミタマノミコト)・武内宿禰命(タケウチスクネノミコト)と多くの神を祭っている。
境内社は、摂津神社・武内神社・白狐稲荷神社・荒神神社・足鶲ノ神・旺磐ノ神等があります。
さて、本社は貞観七年(八六五年)に豊前国宇佐八幡宮より勧請され、最初は「大阪郷宇佐八幡宮」と称し、その後「大阪八幡宮」と号し、最も崇敬厚き神社として多数の神田があったそうです。又、神官社僧も多く祭祀に奉祀をしておりました。応仁の乱後、神田が廃棄されて神官・社僧も共に減少し、天分十二年(一五四三年)五月に尼子晴久が当社に祈願したときに神のおかげがありて、同年六月五日に神田百二十石を寄附し、義久・勝久、皆先代の想いを引き継いだと伝えられています。此の時、神官社僧も再び増員したそうです。慶長三年(千五百九十八)四月、社殿の火災ありて旧記多くは焼失せり。神宮寺の遺跡として神社境内に一小堂があり、本尊は薬師仏を安置したが、慶応四年(千八百六十八)秋、神社取り調べの時廃せられ、仏像は一時村内の仏堂に隠したるを、今は神社の宝物として保存するも故あって六角堂を宮山に建て之を祀る。寛永中に八橋汗入両郡領主・池田摂津守利政郷内岡村に住館、連枝誕生多く因て産土神と厚く崇敬せられ、毎年祭典費寄附をされた。後、国換に因って備前国に移転あり、同十年十一月二十六日、因伯大守松平相模守社領高三石五斗八升を永く寄附せらる。池田氏数世の後、大蔵少輔知利に至り、備前より因幡に帰藩あり。旧に依て復厚く当社を崇敬せられ、永く祈願所として毎年若干の奉納あり。弘化三年(千八百四十六)の秋、池田式部利壽、幕提灯等を寄附せらる。是より幕提灯はすべて池田家の紋章を用いる。慶応四年(千八百六十八)神社取り調べの時、社号を逢坂神社と改められる。合殿武内宿禰命は本社創立の際より相殿に奉祀す。又、倉稲魂命は本社境内に末社と崇敬奉祀せしが、慶応四年(千八百六十八)に合祭す。明治五年二月、郷社に列せられ、明治四十年二月三日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。大正六年四月、逢坂村大字松河字宮木鎮座無格社松河原神社、同村大字岡字枝屋敷鎮座無格社岡神社を合併する。同年八月同村大字殿河内宇谷鎮座無格社殿河内神社を合併する。
大正九年十二月社号を「逢坂八幡神社」と改称す。昭和二十八年六月に宗教法人法に依る設立登記をし、現在に至っています
管粥神事 旧暦一月十五日
例大祭宵宮 五月三日
例大祭 五月四日